モテないからモテる、モテるとモテない

表題、まことにやっかいな設定である。

 

率直に言って私は子供時代からモテる男だったと思う。

が、特にそれが具体的成果として計上される思春期以降、「世間」と対峙せず「世界」ばかりに目を向けていたこともあり、何の実績も伴わないモテ期を過ごした。

長じてからもこの傾向は少しも変わらなかった。

私は意に反して「そういうことに興味なさそう」オーラを纏うようになり、「ゆえにモテる」という倒錯した状況の中に生きることとなった。

こうなると、「そういうこと」に対する野心を見せた段階でモテが終了するというアンビバレンツな力学が発生する。

現実的には、私は若い頃から「めったに空きの出ない物件」であったため、そもそも市場に物件情報が流れるようなことがなかった。

つまり対象にリストアップされようがないという構造的要素が強かったわけだが、当人の気分としては、それで納得するほど達観できるはずもない。

上述のアンビバレンスを憎みつつ、かといって手の打ちようもないこの事態に、手をこまぬいているしかなかったわけだ。

 

そして私は今も、「世間」においてしか鍛えられない筋肉はまるで発達せず、「世界」を遠望し憧れる能力だけを発達させた、歪な生き物として存在している。

加えて本当にやっかいだと思うのは、私自身がそういった自分を好きでたまらないことであり、かつ、多くの現実的果実にありついていたであろう自分を想像するに、「こっちのシナリオでよかったぁ」と心の底から感じていることだ。

 

結局のところ中年の本懐とは、「これでいいのだ」と諦念を混ぜ込むことなく呟けるかどうか、なのだろう。

だとしたら私は、正しい中年として存在しているのだと思いたい。

世間知らずの世界

自分を取り巻く環境として、世間-社会-世界の三層構造を提起した。

この度、この論の更新を痛感する出来事があった。

 

先日、東京在住の高校同窓であるFくんと、同じくKくんと会った。

Kくんはおなじみの盟友であるが、Fくんはなんとこの歳での上京というレアケースを生きており、しかも私と同じ沿線在住ということを先月の同窓会で知り、「ぜひ東京でも!」となっていたところが実現したのだ。

 

Fくんは野球部出身ということもあり、帰宅部の我々とはまったく違う世界の情報を多数持っている(かつ彼は、それら情報の登場人物でもある)。

そのくせFくんは私たちこじらせロック音楽愛好軍団にもしばしば顔を出していたというバランス感覚の持ち主で、聞けばファッション雑誌愛読オシャレ軍団ともつながりがあったという。

なんだ、最強か。

ということで彼から聞くところの話は、Kくんと私にとってはその多くが蔵出しであり、「そんなことやっとったんか!」という驚愕に満ちたものが多数あった。

今でこそ四回目の年男を前に「明鏡止水な俺」も体内には飼っているから、それらの蔵出し話を肴に酒もすすむわけだが、30代までであれば、私は嫉妬の業火に身を焼かれる気持ちで聞かざるを得なかっただろう。

おまえら、どうせそこで男女混じってツイスターでもしょーたんじゃろうが、まじでぶっころすど! という自分を客観的に眺めながら飲む酒は、少し苦くてまことに旨い。

 

2人と別れて最高に楽しい土曜日の夜を反芻しながら、私は思った。

おれが知らなかっただけで、田舎の高校生たちにも「世間」はあったのだ、と。

その中で、誰かと誰かがくっついたり、離れたりしながら、彼らは大人という訳知りの存在に近づいていたのだ。

それに引きかえ、あの頃の私に「世間」はなかった。

私にとって重要だったのは、リバプールの4人組に心を奪われて以来、今ここにないものばかりだった。

あるいは、魚を求めて右往左往する、自然との対峙であった。

そう、私にあったのは「世界」だけだったのだ。

 

三層構造論では、世間-社会-世界の順番が重要となる。

この3つの順序は永遠不変であり、その広さも入れ替わることはない。

だがしかし、これらがある主体の前に立ち現れるタイミングは、必ずしも順番を守らない。

そして、下位概念を経由することなく、いきなり上位概念に対峙することもある。

今回、このことに思い当たったのだった。

現に高校生の私は、「世間」をまったく知らなかった。

それ以上に、「社会」の存在なぞ知る由もなかった。

ただ私は、「世界」のことだけは知っているつもりだったし、それを激しく求めていた。

「自分-世界」という成り立ちだけが私の日々の行動を決め、そこへの憧れが、私の手足と頭を動かす燃料だったのだ。

 

そしていま思う。

「世間」に顔を出し、「社会」に揉まれながら日々を過ごすようになった現在の私も、基本形はあの頃の「自分-世界」にある、と。

17歳の私は、文字通り井の中の蛙だった。

同窓たちが共有する秘密や不文律を知らず、いつもピント外れのおかしな言動を取っていた。

しかし、ちっぽけな居場所から見上げる空の青さは誰よりも知っていたし、そこへの憧れも誰よりも強かった。

そして、あれから30年が経った今も、私は「世界」の素晴らしさを追い求めて日々を生きている。

なぜならそれが、私があの頃に選択した自分のスタイルだからだ。

キリンジの要素

キリンジはその長いキャリアの中で常にハイクオリティな作品を発表し続けている稀有な音楽集団だが、やはり私が繰り返し聴いてしまうのは、泰行在籍時の初期~中期が多い。

一般にソングライターが2人以上いるバンドは寿命が短い。

ビートルズ然り、バッファロー然り。

ストーンズのように役割分担がはっきりしている場合は別にして、「0→1」を生み出すという特異な才能の持ち主が同じ磁場にいることは、大きなメリットを時に上回るリスクをもたらすからだ。

ビートルズ在籍時のジョンとポールのソングライティング力が神がかっているのは、お互いを強く意識していたからと言って間違いないが、その感情は、尊敬、嫉妬、競争などあらゆる位相がないまぜになった複雑なものだろう。

バッファローなどは、結成当初からヤングとスティルスの対立をエネルギー源に名作を生み出している。

 

その点キリンジは、まず兄弟という肉親関係にあることがどう作用したか、を見る必要がある。

私が思うに泰行在籍時のキリンジは、常にお互いをサポートするかたちで曲が生み出されており、それがそのままアルバム楽曲のヴァラエティにつながっているという、誠に良好な関係性だったのではないか。

これは、高樹がほとんどヴォーカルを取らないというフォーメーションが効いているところも大きく、彼はコンポーザーとして、稀代のヴォーカリスト泰行に楽曲提供していたのだと思われる。

一方の泰行も、キリンジ時代はSSW然としたコミットではなく、あくまで「キリンジの曲」を書くコンポーザーとしての立ち位置にあった。

これは、「馬の骨」やその後のソロワークを聴いて判然したことだが、それらの作品がバンドサウンドであってもSSW的感触で貫かれていることと対比し、キリンジに彼が提供した作品は、「素」に何かが添加されているとしか思えないのだ。

 

堀込兄弟はキリンジというプロジェクトのため、お互いにない持ち味を上手く引き出し合いながら、結果として個性と融合のバランスされた作品を紡ぎ続けた。

そこに緊張感はもちろんあっただろうが、対立や嫉妬が一切感じられないのは、キリンジサウンドの「品の良さ」の源泉であるように思う。

 

結果的に泰行は脱退したわけだが、この理想的な関係性は、メジャーフィールドというプレッシャーのかかる場所で、驚くほど長く継続したとみていい。

そしてその間、中だるみも見せず、新たな挑戦を積み重ねてきたキャリアは、類例のないものとして評価されるべきだろう。

 

ところでキリンジの作品は、昨今のシティポップ文脈でとらえられることも多い。

その洗練ぶりはまさにその通りなのだが、それだけに収まらない「ひっかかり」が常にあるのもまた彼らの音楽の特長である。

それは彼らの基礎的な滋養に、アートやアヴァンギャルドといった要素と同じくらい、ポップさ――それも熱量で押し切るような臆面のなさとして現れるそれがあるからだ。

ビートルズ文法で言えば、ジョン要素もあるがやはりポール要素が勝っている感じ。

クイーン文法で言えば、「ボヘミアン・ラプソディ」を聴いた時の、感動とともにある気恥ずかしさを直視し、しっかり実装している感じ。

 

そういった意味では、はやり最初期の「2 in 1」は、彼らの原点でありすべての要素の萌芽が詰まった密度の高い作品ではないかと思う。

「2 in 1」には「休日ダイヤ」という頭抜けた名曲も収録されているし、キリンジに少しでも足をとめたリスナーであれば、避けて通れない盤だろう。

人口構成と消費

1976年に生まれたということは、実質的な記憶を伴う昭和時代を過ごし、平成時代に若者として社会に位置し、そして中年として現在を生きていることになる。

この間、この国の歴史はドラスティックに変わった。

もちろん、戦争に匹敵する出来事は起こらず平和を享受してきたのは間違いないが、戦後日本を統べていたルールがいつの間にか変わってしまったのは、我々が砂被りで体験した事実である。

そのルールとは、加齢に伴う喪失と獲得に関するものだ。

我々以前の世代は、加齢とライフステージの変化にロールモデルが存在した。

その枠内では、10代に夢中になったことは20代では軽視され、20代で夢中になったことは30代で無価値に等しくなり……と喪失サイクルが構造的に訪れる一方で、その陰画としての獲得(結婚、出世、マイホームetc.)が立ち現れた。

このシステムの原動力とは「消費」であり、我々が、人生を通じてもっとも歩留まりの良い消費者であるように設計されたものである。

このシステムの構築者は天才的などこかの巨人ではない。

この島国で、内需を回しながら日々の糧を得る私たち一人ひとりが、それぞれの領域で無意識のうちに参与しながらつくり上げたものである。

 

だがこのシステムは、人口構成がピラミッド型(もしくはそのヴァリエーション)である限りにおいて有効であり、いわゆる壺型から逆ピラミッド型に遷移していく過程においては、次第に効力を発揮しなくなる。

高いポテンシャルをもった大量の新規消費者が後に控えていないのだ。

消費者の新規大量発生が見込めないとなると、考えうるのは一つ、繰り返しの収奪である。

例えば我々の世代は人口のボリュームゾーンだが、それに続く世代はしりすぼみに数が減っていく。

そうなると、我々を何かから「卒業」させて次のステージに追いやっても、我々の座っていた椅子は空席だらけになる。

であれば、いつまでも卒業を延期し、一定の場所で繰り返し消費に勤しんでもらおうというのが、資本主義社会における道理となるだろう。

 

あれは2000年前後だったろうか。

それまで差別と蔑視の対象であり、いつか抜け出すべき地獄というコンセンサスの出来ていた「オタク」が、妙に持ち上げられ始めたのだ。

オタクへの「おもねり」を最初に始めたのは、意外にもそれまで彼らをもっとも侮蔑してきたサブカル界隈だった。

CDや書籍の売上が97年あたりをピークに下降線を描き始めると、タワレコの店頭にはアニメやアイドルの関連商品が次第に押し出されるようになってきた。

親世代の蓄財を基盤に無軌道な消費を繰り返すオタクたちは、資本にとってこの上ない上客であることに気付いてしまったら、気取ってばかりで気分次第ですぐにいなくなるサブカル人間など相手にしている暇はない。

その後20年以上にわたってオタクへのおもねりは継続し、今や中高年の生きがいとして「推し活」が奨励されるほどになってしまった。

 

資本主義社会において、世の中の成文化されていないルール変更は、大体が人口構成と消費行動の関係を見れば説明が付く。

我々の世代は特に、この国に現れた最後のボリュームゾーンとして、繰り返し消費の主役に祭り上げられるだろう。

だがしかし悲しいことに、我々は例えば団塊世代の蓄財に比べ、その成果は著しく低い。

消費者としてのポテンシャルは前例にないほど低い大人集団であるにすぎない。

とはいえ頭数だけは揃っているし、個性よりも集団性を優先するような初期設定がなされているから、低いゾーンの消費主体として、死ぬまで収奪され続けることになるだろう。

自分にとって価値のあるものは何かを自分で決めることができない人間はとりわけ、その対象にリストアップされていくのだ。

2023年のバッファロー

今年、といってもあと1カ月あるが、アルバム単位で一番よく聴いたのはバッファロー・スプリングフィールドの1stだったように思う。

それまでは「ラストタイムアラウンド」のほうをよく聴いていたのだが、やはり1stの意気込みというか気合は素晴らしい。

といってもバッファローの場合、最初から各人のやりたいことはばらばらで、バンドは一つの音像を追求する場ではなく、自分が出したい音を実現していく場にすぎないという認識で成り立っていたように思う。

1stで特に好きなのはニール・ヤング作の曲でリッチー・フューレイがヴォーカルを取る「Do I Have To Come Right Out And Say It」だ。

遠くで鳴っているような楽器の音、ゴージャスなハーモニー、抒情的だが枯れたメロディーライン……この曲にはバッファローの何たるかが凝縮しているように思う。

 

バッファローの音楽には聴いても聴いても汲みつくせない何かが蔵されていることは、このバンドに耳を奪われた多くの先人が証言している。

その代表的な存在がジミー・ペイジ細野晴臣で、彼らはそれぞれ、バッファローベンチマークしてレッド・ツェッペリンはっぴいえんどというバンドをつくり上げた。

いかにもイギリスな、そしていかにも日本な2つのバンドが、これまたいかにもアメリカ(西海岸)なバッファローにインスパイアされて生み出されたという事実は、実に興味深い。

それは、バッファローの核心が意匠にあるのではなく姿勢そのものにあって、聴く者を惹き付けて止まないからだろう。

ルーツミュージックへの憧憬と、相反するような批評性を持ちえたその姿勢が、同時代の鋭敏な表現者に影響を与えたのだ。

 

バッファローは結局、2年の間に3枚のアルバムを残して分解した。

その後のメンバーたちのキャリアは、まさにアメリカンロックそのものの歩みと言っても過言でない充実ぶりだが、やはり原点はあの2年間にある。

天才たちが60年代の西海岸という伝説的な時代に集い、火花を散らして生み出したものは、今もみずみずしく創造的である。

穏健に徒手空拳

何がしかのかたちで社会参加をしている限り、人は歳を重ねるごとに何かを獲得していく。

それは決して喜ぶべき、歓迎すべきものばかりではなく、必ずしも他者からの評価を得られるものばかりでもないが、その獲得したものをベースに自分の身の振り方を考えるようになる。

若者と中年、老人が違うのはこの「獲得物」の有無であり、そこから生まれる言動の差が、まるで別の生き物のような結果につながっている。

 

誰でも平等に歳は取るものだが、それに比例しないかたちで、「何も得ない」という生き方も、あるにはある。

たとえば社会参加を一切せず引きこもっている場合などは、それに該当するケースがあるだろう。

しかし、登戸事件の犯人がそうだったように、何も獲得する術がないはずの人も、怨念を積み増ししていくケースはあって、それもやはり、年功に応じた獲得物ということになる。

社会参加していれば、なおのこと「何も得ない」まま歳を重ねていくのが困難であることは、言うまでもないだろう。

 

だから問題は、獲得する/しないではなく、獲得したものを足場として利用するかどうかに焦点が移行するわけだが、そうなるとそれは生き方の問題になってくる。

もっといえば、経験を経験値に変換するまでは良いとして、その使用法をどうするかという問題になるだろう。

私が思うに、この経験値の現場活用を、自分の内にとどめておくか、他者に向けて適用するかによって、結果は大きく異なる。

現代社会において経験値を他者に影響のある仕方で適用する場合、往々にしてそれは他者にとって「迷惑」というかたちで表出する。

これは古今東西繰り返されてきた「押しつけ」であり、最近の言葉で言えば「マウント」である。

もちろん、経験値が大いに活用される場面もあることは確かだが、老人も含め、今の大人のほとんどが戦後生まれとなった現在、私たちの積み重ねてきた経験など、先人に比べるほどの価値もない。

生ぬるい時代で形成された我々の経験値が、ボーナスステージの終了した現代日本を生きる若者の重要局面に際し、どれほど役に立つというのだろう。

 

そう考えると、現在の日本社会における最善の振る舞いは、「大人としての年功をあくまで私的活用する」ということになるだろう。

それは誰からも尊敬される機会を作り出すことはないが、少なくとも後進たちに迷惑をかける可能性は低い。

特に我々70年代生まれがこれまでに構築したものなど取るに足りないのだから、私たちは二十歳の頃と同じように、徒手空拳で世の中に対峙すればいいのだ。

その際、かつてのようなパセティックな仕方ではなく、それこそ年功を積んだ者としての、「角の取れた徒手空拳作法」を見せねばならない。

 

穏健な徒手空拳ぶり——私の大人作法に、また一つ指針が加わった。

私を取り巻く三層構造

私たちは誰もが、「自分」を立脚点にして生きている。

そして、自分を取り巻く環境に対し何かを働きかけたり、そこから作用を受けたりして日々の生活は成り立っているわけだが、この「環境」が三層構造になっていることに気付いた。

 

もっとも自分の身近に存在するのは「世間」である。

ここには家族や友人、クラスメイトや同僚といった直接的な関係を結ぶものが存在し、加えて、しばしば「目」と称される不文律のような無形の存在も含まれる。

世間と自分との間にあるのは、主に利害関係である。

というか何か問題が表面化する際、とどのつまりそれは利害関係のもつれに集約される。

現代において人口に膾炙したフレーズに「もやもや」があるが、これは自分と世間のズレが生じた際の不快感の総称と言えるだろう。

思うに、日本人の80%以上は「自分-世間」の世界観の内に生きている。

その典型的な表出例が「発言小町」の世界であり、多分に創作も含まれているであろうが、あそこに集う人たちは世間とのハレーションをあーだこーだと騒ぎ立てているのであり、それがこの世のすべてなのだ。

「自分-世間」の内においては、食い物、アミューズメント、消費型恋愛などが関心の対象であり、未知のものに対しての好奇心は閉ざされている。

 

「世間」のもう一つ外側にあるのが「社会」だ。

ここには係累を超えた人間関係が存在し、他者の中にあることで自分はいくらかなりとも相対化される。

社会に関心を寄せるために必須となるのが想像力だが、この能力の有無が「自分-世間」の内に生きている人たちとの決定的な違いとなる。

私の感触では、日本人の15%程度が、「自分-世間-社会」の世界観に生きているように思われる。

ただ、有史以来、一般庶民にとって社会は基本的にろくでもないものである。

ということで、社会を意識する者はリベラルとか左派と呼ばれる批判的スタンスに腑分けされるパターンが多い。

例外的に、体育会系や地元最高ノリなどの世間で人格形成された主体が何かのきっかけに社会に目覚めた場合は、いわゆるネトウヨなどになるケースが多い。

「自分-世間-社会」の世界観に生きる人は、この世を少しでも良い場所にしようとするものだし、じっさい、歴史の正の側面はこういった人たちによって作られてきたと言ってもよい。

ただし、自分にとって社会の存在が強くなりすぎると、人は往々にして原理主義者となる。

こういった人が人類に災禍をもたらしてきたことも、また歴史が物語っている。

なぜ想像力豊かな主体がいつのまにか原理主義者になってしまうのかというと、「社会」に意識が行き過ぎて相対化できなくなることで、それは「世間」にレベルダウンしてしまうからだ。

多くの党派内部において内ゲバが絶えないのはこのためである。

社会変革のために理想を掲げるのは結構なことだが、「社会」はデフォルトでろくでもないものだという相対化した視点がないと、想像力も正義も、あっという間に毒に変化する。

 

そして「社会」をさらに大きく取り巻いているのが「世界」だ。

ここでいう世界とは、自分が属するのとは違う政治体制や共同体を指すのではない。

どちらかと言えば「自然」に近いのだが、人の営為が加わった状態を指しているので、やはり「世界」としか言いようがない。

私がもっとも腑に落ちる「世界」の表現とは、ルイ・アームストロングが歌う「What a Wonderful World」のことだ。

川面から立ち上がる靄に包まれて眺めた朝焼け、雪の降りしきった朝に目覚めてカーテンを開けると飛び込んでくる銀世界、甘味と酸味の奇跡的なバランスの林檎を齧ること、ふと目が合った時の彼女の眼差し……この世界には、心が震えるような瞬間が確かにある。

そういったものをもたらしてくれる源泉が世界である。

だから世界は、私にとっていつだって素晴らしい。

社会はろくでもないかもしれないが、それを取り巻く世界は常に美しい。

世界を愛し、世界に愛されることは、この私の人生を最大限の力で肯定してくれる。

ただ、我々の生活は「今ここ」で営まれているし、そこ以外に成り立つ条件はない。

日常茶飯に足元をからめとられながら全力でもがく中で、時に素晴らしきこの世界が立ち上がってくる瞬間がある。

その瞬間があれば、私たちはまたこの日常をなんとか歩いていくことができる。

だから私は、「自分-世間-社会-世界」という世界観の中に生きていたいと思う。