成し遂げてしまった、その後

松本人志が芸能活動を休止した。

私がこれまで彼の番組を観ることに費やした時間を総計すると、一人の人間が人格を形成するに十分な長さになるだろう。

現に私の一部は、松本の作り出した笑いの世界によって形成されていることは間違いない。

今回の活動休止のきっかけとなった出来事に関して、その真偽や対応の妥当性については、私は関心がない。

それよりも、彼がこのような問題の渦中に存在することになった構図そのものに関心がある。

 

彼はいつの頃からか、反逆者、アウトサイダーオルタナティブではなくなっていた。

そのことは仕方がないと思うし、松本自身が芸人の社会的地位の向上を目指しそれを実現してきたのだから、その達成は純粋に大したものだと思う。

しかし、彼が己の権力をパーソナリティに織り込んだ言動を取り始めたことは、失望に値する。

私はそういった存在を“天皇”と呼んでいるのだが、小さな世界のお山の大将が全能の振る舞いを見せる時、そこには傷つく人間が確実に発生する。

力を獲得するのは悪いことではないが、その先で天皇化してしまうかどうかは話が別だ。

天皇化の分水嶺は、自分自身に対する高度の客観性を持ちえたか否かにある。

つまりこれは知性の問題であって、天皇化した人物に知性が欠如していたとは例に漏れない。

松本はかつて自身のコンプレックスを、「学歴のなさ」と言っていて私は感心したのだが、それが知性を意味するのではなく、単なる勲章であり世俗的説得力の威信となる記号の欠如だったのかと思うと、残念でならない。

 

松本人志の笑いは、彼自身が繰り返し述べているように、幼少期に全てのルーツがある。

貧乏でモノがない家庭、そしてカオスのような時代と状況、しかし仲間だけには恵まれた時間の中で経験したあらゆる事象を基盤に、彼はすべてを笑いに転化してきた。

彼は自身の笑いの本質を「発想」と言うが、それは実は表面的なことであって、その源泉となる「視点」こそが、彼の真骨頂であった。

だから、いつもマジョリティとは異なる視点を維持するため、彼はこの世界のストレンジャーでなければならなかったのだが、当然のごとく、成功は彼を世界のフルメンバーに招き入れた。

繰り返しになるが、そのこと自体は仕方がない。

しかし、異端者ではなくなった自分を客観視できるかどうかが、実は本当の成功を意味するのだ。

例えば芸人でも、北野武太田光有吉弘行らは、そのようなあり方を保持している。

松本の天皇化には、吉本興業という強力な縦社会の存在が大きく作用している。

マフィア然とした鉄の結束と上下関係に満たされたエトスの中で、小さな天皇が日常的に再生産されていることは、想像に難くない。

笑いの世界はしばしば東西でその差異が語られるが、彼が関西芸人という出自であったことは、結果的に不幸に働いたと言えるのではないだろうか。

 

松本が天皇化しだしたタイミングは、いくつか思い当たる。

例えばマッチョ化した時がそうだろうし、ガキのフリートークを止めた時もそうかもしれない。

ただ、ここで重要なのは変節ポイントではなく、その前段階にある、彼が「成し遂げてしまった」瞬間ではないか。

その瞬間を私は明快に言い当てることができる、「チキンライス」だ。

「チキンライス」で幼少期と思春期を自分史に位置づけ、世間にもパッケージとして提示することで、彼はアウトサイダーとしての自分を完全に成仏させることが出来た。

この時、彼は確実に燃え尽きただろうし、生まれて初めての白紙状態になっただろう。

そうした「からっぽの自分」を直視し、そこから次の何かをつかみ取る努力を、彼は行ったのだろうか。

もし彼に、白紙から立ち上がるために必要な胆力と知性が備わっていなかったとしても、それは問題ではない。

そのことに気付いていながら流されていったことこそが、問題なのだ。

 

そういえば2000年代後半、彼は映画製作に乗り出したが、何本かの駄作で才能の片鱗と能力の低さを同時に露呈したのち、そのまま映画からはフェードアウトしてしまった。

死んだ子の歳を数えるようでむなしいが、彼がその後も毀誉褒貶に耐え忍びながら映画製作を続けていれば、何か現実とは違う現在に到達していたのではないか。

大日本人」公開時、北野武はこう言っていた。

「(松本は)才能あるよ。10本も撮ればモノになるんじゃない」

10本……。

ここに全ての結論があるような気がしてならない。