上岡龍太郎「26歳原点説」について

上岡龍太郎の「26歳原点説」というのがある。
上岡の「名言」に関しては、ショート動画やXで切り取られて拡散されていることもあり、往時を知らない世代の目にも触れる現況となっているが、前後の文脈がオミットされていることもあって、かなり拡大解釈や飛躍が進んでいるように感じる。
冒頭の説については、「人は26歳の時に決めたことを一生かけて実現しようとする」という通説化が一般的であり、これを「人が実現しようとするのは26歳時点で決めたことに過ぎない」といささか運命論的に解釈する向きもあるようだ。
しかしこの話で本当に重要なのは、この結論に先立つ部分にある。
上岡曰く、「人は19歳から26歳に何を吸収するかでその中身が決まる。26歳以降は、それを知識や経験を駆使してやりくりしているに過ぎない」というもので、これが結果的に「26歳原点説」として流布するようになったのだ。

 

つまり、「取り返しのつかなさ」「身も蓋もなさ」で言えば、上岡の真意はよりシビアなところにあるだろう。
これに対しては、「俺の運命、おまえが勝手に決めてんじゃねぇよ」という反論が予想されるが、確かに上岡流の屁理屈芸で繰り出されるこの“決めつけ”は、ある種の人にとって不快そのものの言説であろう。


私にとって上岡龍太郎は、深夜番組のカルトスターといった位置づけにある(あった)。
関西文化圏の薄い横流しという広島県のテレビ文化において、上岡は「夜更かししていたら出てくるおっさん」であり、東京的なものにあこがれていた10代後半の私にしてみれば、いかにも関西な感じの人でちょっと性に合わないなぁ、という印象を抱いたものだ。
(私にとっての関西人は「でんがな・まんがな」の新喜劇的スタイルではなく、この上岡的な「シュッとしているが理屈っぽい」イメージである。)
ただ、上岡の語りに抗いがたい魅力があることは当時から認めており、例えば「東京なんてね、しょせん東京都(ひがしきょうと)ですから」という発言などは、「はー」という感心と「いやまぁそうじゃけど」という呆れを同時にもたらす、絶妙なラインを突いてくるものであった。

 

ということで、私は巷間言われるところの上岡の「話芸」の見事さは認めつつ、どこか半信半疑でこのおっさんの言説にあたってきたのだが、「26歳原点説」については、ほぼ満場一致の同意を示したいと思う。
「人は19歳から26歳に何を吸収するかでその中身が決まる」というのは、確かに「だからなんだ?」という話なのだが、これは厳然たる事実である。
サンプリングは私という一例にすぎず実証性がまるでないのはその通りなのだが、本当のことなのだからしょうがない。
思うに、多くの日本人の典型的なライフコースに当てはめた場合、これは高校卒業後~就職直後の期間に該当する。
この時代の人間、特に男は、謎に神のごとき全能感を身にまとっているものだが、それを打ち消して余りある無力感を日々感じながら過ごしている。
この全能感と無力感の間を行き来する振り子をどれだけ多く振幅させたかは、その後の彼のものの見方や受け取り方、それを受けてのアウトプットの質を決定づける。
ここで重要なのは、この時期にいかに多くの表現物に触れ、印象的な体験を積み重ねたのかが問題ではない、ということだ。
それらは振り子の動力に過ぎないのであって、大事なのは振り子の往復数なのだ。
もちろん、振り子を数多く往復させた者は、結果的に多くのコンテンツを吸収していることにはなるが、それは手段の積み重ねがそのような結果に帰結したというに過ぎない。
人間が、全能感と無力感というまったく相反する感覚を最大限に同時所有できるのは、体力と時間が有り余って欲望に満ち溢れている一方で、致命的に世間知らずで知恵のないこの時代に限定される。
だからこの決定的な時期を「正しく」過ごしたかどうかが、その主体の一生を決めてしまうという説なのである。

 

ところで、私は上岡龍太郎に対し半信半疑のスタンスを取ってきたわけだが、思えばこれは上岡にそう仕向けられたものであることに最近気づいた。
上岡の語りが傾聴に値し芸として成立しているのは、「決めつけ」と同じくらいの比重で「懐疑」が含有されているからだ。
上岡はいかにも自信たっぷりに断定的な物言いをする一方で、「こんなええ加減な話、信じたらあかんで」という自己否定を必ず忍ばせていた。
耳目を引き付ける話には、この矛盾が必ず実装されているのである。

二つのリスト

40代も終盤に差し掛かってくると、それなりに「手に入れたもの」リストも長くなってくるのだが、それ以上に書き足されているのが「手に入らなかったもの」リストである。
そのリストに、自身の能力や財力に起因して手に入らなかったものは含まれない。
なぜならそれらは、今後何がしかのパラメーターを伸長することで手に入る可能性があるからだ。
そうではなく、この先それを手に入れる機会が二度と訪れないことが確定している、もしくは仮に入手しても現時点では何の意味もないものを連ねたリストなのである。

 

この「手に入らなかったもの」リストに依拠して人格を形成していくのか、それとも「手に入れたもの」リストを根拠として現在の自分を構築していくのかは、人間を分かつ決定的な分水嶺であると思う。
一般的に前者のリストに拠って立つ人間のパーソナリティは、控えめで内向的、経済的観念より文化的観念を優先する場合が多いだろう。
後者の場合、エネルギッシュで社交的であり、社会的地位やそれを表象する不動産および動産の獲得に熱心であり、旺盛な野心を実装している可能性が高い。

 

言うまでもなく私は「手に入らなかったもの」リストによって成り立っている人間であるが、そうでありつつ、そういった自意識を気持ち悪いと思う回路を持ち合わせていることは、はっきりと宣言しておきたい。
(ただしこれは「そうやって悦に入らない自分も含めて上機嫌なんでしょ?」という疑念に対して「いや、そうじゃなくて……」と反論する無限ターンに突入する可能性があり、合わせ鏡のような底なしに突入するやっかいさがあることも自覚している。←という無限ターン)
私はそういった自らの感性がたまらなく好きだが、同じくらいショボいとも思っているし、そうやって毒気の抜けたふりをして獲物をおびき寄せる“死んだふり戦術”とは完全に無縁であるとも言い切れない。
現に、いかにも弱々しく繊細な男が愛情的支持を獲得するケースをこれまで何度も目撃しており、「もしおれがモテるとすればこっちのやりかただな」との野心を抱いてもきた。
ただそれが実行に移されなかったのは、その戦術をとることで得るものと失うものを天秤にかけた時、後者のほうが大きいと判断してきたからであり、その度量衡をもってマッチョな人間であると認定された(あくまで繊細界隈でだが)としても、私は「ああそうだよ、それが何か?」と開き直っただろう。

 

そういう意味では、「『手にいれたものリスト』で構築された自分」が私の「手に入らなかったものリスト」の筆頭に記載されているわけで、そこに浮かび上がってくるのは、自らの肉体を食べて巨大化していく怪物のような存在である。まことに厄介だ。
結果、「お前のどこが繊細なのか?」という理由でマッチョ国に強制送還されるわけだが、かの国では「おまえのようなひょろひょろの人間の居場所はない」と宣告されるわけで、結局どこにも居場所がない。
ただ、私がこの世で最も恐れるのが“居着き”であることを鑑みると、やはりこの宙ぶらりんも自らの主体的・能動的な選択の帰結と言えるだろう。
結論としては、「おれはおれで本当によかった」といういつもの着地点に至る。

新しい夜明け

ボブ・ディランの「New Morning」へのオマージュと思われる作品が、90年代の日本で2つ生まれている。

 

真心ブラザーズの「新しい夜明け」は、96年の快作『GREAT ADVENTURE』に収録されている。

弾き語りの「GREAT ADVENTURE FAMILY」から始まるこのアルバムを本格始動させる曲で、「空にまいあがれ」と並び、この時期の倉持陽一の精神状態を反映した傑作と言えるだろう。

真心は何よりもまず、倉持の強烈かつ確立されたヴォーカルに耳を奪われ、その第一印象はそのまま「どかーん」に直結してしまう、という日本人がかなり多いのではないか。

このインパクトの強さから、「強度が高い一発勝負のミュージシャン」という印象が一定程度定着しており、楽曲の時間耐久性はそれほど高くない、という評価がどうしても付きまとう。

実際、この頃のアルバムにもそういう出オチ的というか、「聴き込み」を求めない曲も何曲か収められており、当人たちがそういう瞬発力勝負に一定程度のリソースを割いていたという事実はあると思う。

その一方で、30年近い時の風雪に耐え、今なお、否、より輝きを増しているような作品も存在する。

「新しい夜明け」はその代表例で、この曲はあらゆる価値が相対化し、理不尽な出来事ばかりが当たり前のように続く現代においてこそ、傾聴に値する作品であるように思う。

倉持は基本的に、ポジティブなことしか歌わない。

否定的なことを歌う時も、例えば「人間はもう終わりだ」でそうするように、肯定的なパワーでもってネガティブな内容を歌う。

「新しい夜明け」は、リフレインとなるコーラスの後、「嵐の中で君を見た」という印象的なフレーズから始まる。

そこから続くフレーズは、ある種の崇高さの表現であり、厳しい状況を生き抜くための舞台設定が整う。

そこから宗教的な境地を歌い上げるのではなく、等身大の吐露に回帰するのが実に倉持らしい。

「悲しい出来事には僕は無力無力/だからこそ楽しい気持ちで溢れてたいのさ」

諦観とそこから前を向く力強さを、この上ないシンプルな言葉で表現しきるこの才能が、倉持にその圧倒性をもたらしている。

ゴージャスなコーラスを効果的に配置し、それらを力強いギターリフで接続しながら、「新しい夜明け」はその表題にふさわしいメッセージを紡ぎあげていく。

それは、苦難の多いこの世界を歩き続けようとする人を奮い立たせる、まっすぐなエールとなって響く。

 

もう一曲の「新しい夜明け」は、カーネーションの「New Morning」だ。

この曲は97年の傑作『Booby』のファーストチューンであり、この時期のバンドの良好な状態を見事に反映した、力強いポップソングになっている。

「New Morning」には、どちらかと言うと内省的なフレーズが目立つ。

「国道ぞいのボーリング場で何やら工事が始まった」という印象的なフレーズは、時代の役目を終えて消えゆかんとする存在を気に留める視線であり、それに続く「ねぇ おれの部品はどこに転がっているのかな」というつぶやきは、これまでの歩みで満身創痍となった自身への同情と、弛みへの意思表示のようにも受け取れる。

つまりこの曲の主人公は、今新しい夜明けを前に高揚しているのではなく、これまでに何千何万と新しい夜明けを経験し、もはや高揚を打ち消すほどの疲れを隠し切れない状態にあるのだ。

しかし、その後に続く「ずっとここにいる」というこの曲における重要なフレーズが、その状況を反転させる。

倦み疲れて、それが主体的な意志かどうかもはや明瞭ではなくても、「ずっとここにいる」。

その決意を持った者しか見られない朝をもう一度迎えようというのが、この曲のメッセージなのだ。

「夢のかけらをひろいあつめて/胸にしずめよう/時を数えて」

ここまで長い歩みを続けてきた結果、思ったような自分に到達できていないかもしれない。

しかし、そのことを嘆くのではなく、熱を宿して歩き続けてきた時間そのものを肯定しようと呼びかけているのだ。

それに続くフレーズは、今いるこの場所から「新しい夜明け」を迎えようとする意志表示だ。

「声が枯れても/君のためなら/歌い続けられる/明日も」

最早自分に白紙のキャンバスは残されていない。

手垢のついたものに囲まれ、自分の時代は過ぎ去ってしまったのかもしれないが、それでも新しい朝を迎えて、歌い続けることはできる。

 

真心のフレッシュな「新しい夜明け」に対し、こちらは老練な「New Morning」となっているが、言わずもがな、どちらも素晴らしい。

そしてどちらも、今の私にとって必要な音楽なのだ。

相変わらずの布陣ですが……

結局、何を聴いているかという話なんですけどね。

 

①バッファロー・スプリングフィールド『Buffalo Springfield』

バッファロー1stだが、これが飽きるほど聴いているにもかかわらず、週に2、3回は聴きたくなる。

乾いたメロディ、多彩なアレンジ、美しいハーモニー、楽器の音の良さ、どれをとっても一級のアメリカンロックとしか言いようがない。

朝でも夜でも聴けるのがすごい。

 

②同『Last Time Around』

バッファローにおける『ホワイトアルバム』。

才能のきらめきがほとんど角を丸められることなく配置された本作は、確かに散漫かもしれないが、楽曲の強さがすごい。

特に「four days gone」には、バッファローの何たるかが全て詰まっている。

 

③加藤和彦『あの頃、マリー・ローランサン』

もう何年ヘヴィローテーションしているのか、今朝も聴いてしまった。

加藤和彦という人は才能がありすぎるゆえか、自身を取り巻く環境の変化がもろに作品に反映される人だが、この時期の加藤は、自身の才能と最も親和性の高い状況にあったと思う。

ソロミュージシャンとしての身軽さと、マエストロとしてプレイヤーを自由に選びながら音作りを進めるという贅沢さが、この到達点に至らしめた。

もう日本語のポップスでこんなアルバムは二度と生まれないだろうことを思うと、歴史そのものを垣間見ている気分になる。

 

④ペイヴメント『Slanted and Enchanted』

高校時代に聴いていたアルバムだけを集めてプレイリストを作成したのだが、その中で収穫だったのがペイヴメントの1st。

聴けば聴くほど、曲の完成度の高さと奇跡的な演奏の数々に唸らされる。

ここまで“匙加減”だけで勝負した作品はそうそうないだろう。

極めて野心的な試みが成功しているがゆえに野心を一切感じさせないという境地に至った名盤。

 

⑤エコーベリー『 Everyone's Got One』

これも高校時代プレイリストからの再発見。

とにかくバランスの良い作品で、バンドの状態と時代背景がかみ合って生まれた、これもまた再生産不可能な奇跡の一枚。

繊細と大胆を両立させ、メンバーの最盛期を見事に切り取って収めた作品だけが持つ勢いと切なさがいい。

 

⑥アル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーブン・スティルス

『Super Session』

さらに高校プレイリストから。

ここに収められたブルームフィールドのギターほど、59レスポールの音を惜しみなく聞かせてくれるレコードはない。

レスポールって、マーシャルで弾いてももちろんいいんだけど、やっぱフェンダーのアンプにつなぐのが一番いい音するよね。

改めて聴き込んでみると、オーバーダビングが意外なほど少なくシンプルなのだが、音が厚い。

アレンジャーとしてのアル・クーパーの才が見事に開花している。

あと、エディ・ホーのドラムの音が気持ちいい。

何十年も聴き続けられるのは、とにかく各楽器の一番いい音が詰まっているからなのだろう。

成し遂げてしまった、その後

松本人志が芸能活動を休止した。

私がこれまで彼の番組を観ることに費やした時間を総計すると、一人の人間が人格を形成するに十分な長さになるだろう。

現に私の一部は、松本の作り出した笑いの世界によって形成されていることは間違いない。

今回の活動休止のきっかけとなった出来事に関して、その真偽や対応の妥当性については、私は関心がない。

それよりも、彼がこのような問題の渦中に存在することになった構図そのものに関心がある。

 

彼はいつの頃からか、反逆者、アウトサイダー、オルタナティブではなくなっていた。

そのことは仕方がないと思うし、松本自身が芸人の社会的地位の向上を目指しそれを実現してきたのだから、その達成は純粋に大したものだと思う。

しかし、彼が己の権力をパーソナリティに織り込んだ言動を取り始めたことは、失望に値する。

私はそういった存在を“天皇”と呼んでいるのだが、小さな世界のお山の大将が全能の振る舞いを見せる時、そこには傷つく人間が確実に発生する。

力を獲得するのは悪いことではないが、その先で天皇化してしまうかどうかは話が別だ。

天皇化の分水嶺は、自分自身に対する高度の客観性を持ちえたか否かにある。

つまりこれは知性の問題であって、天皇化した人物に知性が欠如していたとは例に漏れない。

松本はかつて自身のコンプレックスを、「学歴のなさ」と言っていて私は感心したのだが、それが知性を意味するのではなく、単なる勲章であり世俗的説得力の威信となる記号の欠如だったのかと思うと、残念でならない。

 

松本人志の笑いは、彼自身が繰り返し述べているように、幼少期に全てのルーツがある。

貧乏でモノがない家庭、そしてカオスのような時代と状況、しかし仲間だけには恵まれた時間の中で経験したあらゆる事象を基盤に、彼はすべてを笑いに転化してきた。

彼は自身の笑いの本質を「発想」と言うが、それは実は表面的なことであって、その源泉となる「視点」こそが、彼の真骨頂であった。

だから、いつもマジョリティとは異なる視点を維持するため、彼はこの世界のストレンジャーでなければならなかったのだが、当然のごとく、成功は彼を世界のフルメンバーに招き入れた。

繰り返しになるが、そのこと自体は仕方がない。

しかし、異端者ではなくなった自分を客観視できるかどうかが、実は本当の成功を意味するのだ。

例えば芸人でも、北野武、太田光、有吉弘行らは、そのようなあり方を保持している。

松本の天皇化には、吉本興業という強力な縦社会の存在が大きく作用している。

マフィア然とした鉄の結束と上下関係に満たされたエトスの中で、小さな天皇が日常的に再生産されていることは、想像に難くない。

笑いの世界はしばしば東西でその差異が語られるが、彼が関西芸人という出自であったことは、結果的に不幸に働いたと言えるのではないだろうか。

 

松本が天皇化しだしたタイミングは、いくつか思い当たる。

例えばマッチョ化した時がそうだろうし、ガキのフリートークを止めた時もそうかもしれない。

ただ、ここで重要なのは変節ポイントではなく、その前段階にある、彼が「成し遂げてしまった」瞬間ではないか。

その瞬間を私は明快に言い当てることができる、「チキンライス」だ。

「チキンライス」で幼少期と思春期を自分史に位置づけ、世間にもパッケージとして提示することで、彼はアウトサイダーとしての自分を完全に成仏させることが出来た。

この時、彼は確実に燃え尽きただろうし、生まれて初めての白紙状態になっただろう。

そうした「からっぽの自分」を直視し、そこから次の何かをつかみ取る努力を、彼は行ったのだろうか。

もし彼に、白紙から立ち上がるために必要な胆力と知性が備わっていなかったとしても、それは問題ではない。

そのことに気付いていながら流されていったことこそが、問題なのだ。

 

そういえば2000年代後半、彼は映画製作に乗り出したが、何本かの駄作で才能の片鱗と能力の低さを同時に露呈したのち、そのまま映画からはフェードアウトしてしまった。

死んだ子の歳を数えるようでむなしいが、彼がその後も毀誉褒貶に耐え忍びながら映画製作を続けていれば、何か現実とは違う現在に到達していたのではないか。

「大日本人」公開時、北野武はこう言っていた。

「(松本は)才能あるよ。10本も撮ればモノになるんじゃない」

10本……。

ここに全ての結論があるような気がしてならない。

不穏の時代

大地震から始まった2024年だが、今年は不穏な年になると思う。

それはコロナ禍以降の社会の変化から始まった「空気」にも思えるし、1995年あたりからの時代転換がいよいよ総仕上げのフェーズに入ったかと思わせるものでもある。

このあたり、大風呂敷を拡げて論じるのも興味深いが、私の力量でもってそれを上手くまとめられる自信はない。

もっとも卑近な私の「気分」がそう感じている、という以上の論証を持たないのだが、昭和のエトスの中で少年時代を過ごし、この国にあらゆる無理が生じてままならなくなった時代に青年期を迎え、かつての価値に値が付かなくなる中で社会を生きてきた我々世代にとって、今年の不穏さは、かつて見た景色のようであり、それ以上の大きさをもって我々を飲み込んでしまいそうなことでもある。

 

ただ、価値の変化については、私たちほど耐性をもった世代はいない。

換金不能な空手形に踊らされ、何を得ることもなく中年に至っても、このように死に絶えることなく生きてはいる。

けっきょくのところ、何かを呪って得ることのできる免責などたいしたものではないのだ。

それよりも、免責や同情と引き換えに、己の人生に対する主体性を喪ってしまうことのほうが、私には堪える。

主体性を喪わない限り、私にはいつだって「好きなもの」があるし、それを手に入れたり近づいたりするための努力ができる。

このシンプルな経験則だけで、不穏の時代に突入する所存。

「Sort of」の感覚

スラップ・ハッピーは、いくらでもそれを表す記号を連ねることができるバンドである。

クラウトロック、アヴァンポップ、ジャーマンプログレ、はたまたカンタベリー・ロック……これら記号の集合体から浮かび上がるのは、「要するにフツーのロック、ポップスじゃないのね」という奇態の像だろう。

実際、スラップ・ハッピーはわかりやすく奇妙で、わかりやすくわかりにくい。

メロディラインは不安定だし、不協和音は鳴り響いているし、楽器のフレージングはインプロヴィゼーションを思わせる。

こうした第一印象により、かなりのやっかいな迷路を抜けてこのバンドにたどり着いたはずのリスナーも、「はいはい、そういうのね」と記号処理してしまう人が一定数いるのではないか。

そう思うと、非常に口惜しいのがこのバンドなのだ。

 

私は大作「カサブランカ・ムーン」も好きだが、彼らのアルバムでもっとも愛聴するのは1st「Sort of」である。

「Sort of」には、このバンドの種子となるすべての要素が含まれている。

それは手段としての音楽的素養のみならず、手触りのような言語化しがたいものまですべて、である。

「Sort of」の楽曲には、意外なほどにラフなロックナンバーも多く収録されている。

それらは、「Loaded」におけるヴェルヴェッツや、ジョナサン・リッチマンあたりの系譜にある、蓮っ葉だが不思議と臭みのない、ヌケのいい音像が特徴となっている。

このあたりのセンスは、やろうと思ってやれる類のものではない。

そして、ダグマー・クラウゼがヴォーカルをとる曲群は、それとは対照的に、ロック経験のみしか持たないリスナーにとっては参照項の見いだしにくい、不思議な音像を聞かせてくれる。

その浮遊感は唯一無二としか言いようがないが、完全に音と光を遮断した空間から最初に聞こえてくる音楽があるとすれば、それにふさわしいように感じられる。

 

とりわけ「small hands of stone」の浮遊感は群を抜いている。

この曲を聴いているときの聴き手のバイオリズムは、この曲以外では再現不可能のものであろう。

ヴォーカル、ピアノ、ベース、サックスの4本の音が完全にかみ合っていないのにもかかわらず、ここまで強力な音像をつくり上げている楽曲は、なかなか他に見当たらない。

 

もし、「その音楽を聴くことでしか呼び出されない感覚」を音楽に求めるのであれば、「Sort of」は最適解の一つであるだろう。