ボブ・ディランの「New Morning」へのオマージュと思われる作品が、90年代の日本で2つ生まれている。
真心ブラザーズの「新しい夜明け」は、96年の快作『GREAT ADVENTURE』に収録されている。
弾き語りの「GREAT ADVENTURE FAMILY」から始まるこのアルバムを本格始動させる曲で、「空にまいあがれ」と並び、この時期の倉持陽一の精神状態を反映した傑作と言えるだろう。
真心は何よりもまず、倉持の強烈かつ確立されたヴォーカルに耳を奪われ、その第一印象はそのまま「どかーん」に直結してしまう、という日本人がかなり多いのではないか。
このインパクトの強さから、「強度が高い一発勝負のミュージシャン」という印象が一定程度定着しており、楽曲の時間耐久性はそれほど高くない、という評価がどうしても付きまとう。
実際、この頃のアルバムにもそういう出オチ的というか、「聴き込み」を求めない曲も何曲か収められており、当人たちがそういう瞬発力勝負に一定程度のリソースを割いていたという事実はあると思う。
その一方で、30年近い時の風雪に耐え、今なお、否、より輝きを増しているような作品も存在する。
「新しい夜明け」はその代表例で、この曲はあらゆる価値が相対化し、理不尽な出来事ばかりが当たり前のように続く現代においてこそ、傾聴に値する作品であるように思う。
倉持は基本的に、ポジティブなことしか歌わない。
否定的なことを歌う時も、例えば「人間はもう終わりだ」でそうするように、肯定的なパワーでもってネガティブな内容を歌う。
「新しい夜明け」は、リフレインとなるコーラスの後、「嵐の中で君を見た」という印象的なフレーズから始まる。
そこから続くフレーズは、ある種の崇高さの表現であり、厳しい状況を生き抜くための舞台設定が整う。
そこから宗教的な境地を歌い上げるのではなく、等身大の吐露に回帰するのが実に倉持らしい。
「悲しい出来事には僕は無力無力/だからこそ楽しい気持ちで溢れてたいのさ」
諦観とそこから前を向く力強さを、この上ないシンプルな言葉で表現しきるこの才能が、倉持にその圧倒性をもたらしている。
ゴージャスなコーラスを効果的に配置し、それらを力強いギターリフで接続しながら、「新しい夜明け」はその表題にふさわしいメッセージを紡ぎあげていく。
それは、苦難の多いこの世界を歩き続けようとする人を奮い立たせる、まっすぐなエールとなって響く。
もう一曲の「新しい夜明け」は、カーネーションの「New Morning」だ。
この曲は97年の傑作『Booby』のファーストチューンであり、この時期のバンドの良好な状態を見事に反映した、力強いポップソングになっている。
「New Morning」には、どちらかと言うと内省的なフレーズが目立つ。
「国道ぞいのボーリング場で何やら工事が始まった」という印象的なフレーズは、時代の役目を終えて消えゆかんとする存在を気に留める視線であり、それに続く「ねぇ おれの部品はどこに転がっているのかな」というつぶやきは、これまでの歩みで満身創痍となった自身への同情と、弛みへの意思表示のようにも受け取れる。
つまりこの曲の主人公は、今新しい夜明けを前に高揚しているのではなく、これまでに何千何万と新しい夜明けを経験し、もはや高揚を打ち消すほどの疲れを隠し切れない状態にあるのだ。
しかし、その後に続く「ずっとここにいる」というこの曲における重要なフレーズが、その状況を反転させる。
倦み疲れて、それが主体的な意志かどうかもはや明瞭ではなくても、「ずっとここにいる」。
その決意を持った者しか見られない朝をもう一度迎えようというのが、この曲のメッセージなのだ。
「夢のかけらをひろいあつめて/胸にしずめよう/時を数えて」
ここまで長い歩みを続けてきた結果、思ったような自分に到達できていないかもしれない。
しかし、そのことを嘆くのではなく、熱を宿して歩き続けてきた時間そのものを肯定しようと呼びかけているのだ。
それに続くフレーズは、今いるこの場所から「新しい夜明け」を迎えようとする意志表示だ。
「声が枯れても/君のためなら/歌い続けられる/明日も」
最早自分に白紙のキャンバスは残されていない。
手垢のついたものに囲まれ、自分の時代は過ぎ去ってしまったのかもしれないが、それでも新しい朝を迎えて、歌い続けることはできる。
真心のフレッシュな「新しい夜明け」に対し、こちらは老練な「New Morning」となっているが、言わずもがな、どちらも素晴らしい。
そしてどちらも、今の私にとって必要な音楽なのだ。