不穏の時代

地震から始まった2024年だが、今年は不穏な年になると思う。

それはコロナ禍以降の社会の変化から始まった「空気」にも思えるし、1995年あたりからの時代転換がいよいよ総仕上げのフェーズに入ったかと思わせるものでもある。

このあたり、大風呂敷を拡げて論じるのも興味深いが、私の力量でもってそれを上手くまとめられる自信はない。

もっとも卑近な私の「気分」がそう感じている、という以上の論証を持たないのだが、昭和のエトスの中で少年時代を過ごし、この国にあらゆる無理が生じてままならなくなった時代に青年期を迎え、かつての価値に値が付かなくなる中で社会を生きてきた我々世代にとって、今年の不穏さは、かつて見た景色のようであり、それ以上の大きさをもって我々を飲み込んでしまいそうなことでもある。

 

ただ、価値の変化については、私たちほど耐性をもった世代はいない。

換金不能な空手形に踊らされ、何を得ることもなく中年に至っても、このように死に絶えることなく生きてはいる。

けっきょくのところ、何かを呪って得ることのできる免責などたいしたものではないのだ。

それよりも、免責や同情と引き換えに、己の人生に対する主体性を喪ってしまうことのほうが、私には堪える。

主体性を喪わない限り、私にはいつだって「好きなもの」があるし、それを手に入れたり近づいたりするための努力ができる。

このシンプルな経験則だけで、不穏の時代に突入する所存。