私たちは誰もが、「自分」を立脚点にして生きている。
そして、自分を取り巻く環境に対し何かを働きかけたり、そこから作用を受けたりして日々の生活は成り立っているわけだが、この「環境」が三層構造になっていることに気付いた。
もっとも自分の身近に存在するのは「世間」である。
ここには家族や友人、クラスメイトや同僚といった直接的な関係を結ぶものが存在し、加えて、しばしば「目」と称される不文律のような無形の存在も含まれる。
世間と自分との間にあるのは、主に利害関係である。
というか何か問題が表面化する際、とどのつまりそれは利害関係のもつれに集約される。
現代において人口に膾炙したフレーズに「もやもや」があるが、これは自分と世間のズレが生じた際の不快感の総称と言えるだろう。
思うに、日本人の80%以上は「自分-世間」の世界観の内に生きている。
その典型的な表出例が「発言小町」の世界であり、多分に創作も含まれているであろうが、あそこに集う人たちは世間とのハレーションをあーだこーだと騒ぎ立てているのであり、それがこの世のすべてなのだ。
「自分-世間」の内においては、食い物、アミューズメント、消費型恋愛などが関心の対象であり、未知のものに対しての好奇心は閉ざされている。
「世間」のもう一つ外側にあるのが「社会」だ。
ここには係累を超えた人間関係が存在し、他者の中にあることで自分はいくらかなりとも相対化される。
社会に関心を寄せるために必須となるのが想像力だが、この能力の有無が「自分-世間」の内に生きている人たちとの決定的な違いとなる。
私の感触では、日本人の15%程度が、「自分-世間-社会」の世界観に生きているように思われる。
ただ、有史以来、一般庶民にとって社会は基本的にろくでもないものである。
ということで、社会を意識する者はリベラルとか左派と呼ばれる批判的スタンスに腑分けされるパターンが多い。
例外的に、体育会系や地元最高ノリなどの世間で人格形成された主体が何かのきっかけに社会に目覚めた場合は、いわゆるネトウヨなどになるケースが多い。
「自分-世間-社会」の世界観に生きる人は、この世を少しでも良い場所にしようとするものだし、じっさい、歴史の正の側面はこういった人たちによって作られてきたと言ってもよい。
ただし、自分にとって社会の存在が強くなりすぎると、人は往々にして原理主義者となる。
こういった人が人類に災禍をもたらしてきたことも、また歴史が物語っている。
なぜ想像力豊かな主体がいつのまにか原理主義者になってしまうのかというと、「社会」に意識が行き過ぎて相対化できなくなることで、それは「世間」にレベルダウンしてしまうからだ。
多くの党派内部において内ゲバが絶えないのはこのためである。
社会変革のために理想を掲げるのは結構なことだが、「社会」はデフォルトでろくでもないものだという相対化した視点がないと、想像力も正義も、あっという間に毒に変化する。
そして「社会」をさらに大きく取り巻いているのが「世界」だ。
ここでいう世界とは、自分が属するのとは違う政治体制や共同体を指すのではない。
どちらかと言えば「自然」に近いのだが、人の営為が加わった状態を指しているので、やはり「世界」としか言いようがない。
私がもっとも腑に落ちる「世界」の表現とは、ルイ・アームストロングが歌う「What a Wonderful World」のことだ。
川面から立ち上がる靄に包まれて眺めた朝焼け、雪の降りしきった朝に目覚めてカーテンを開けると飛び込んでくる銀世界、甘味と酸味の奇跡的なバランスの林檎を齧ること、ふと目が合った時の彼女の眼差し……この世界には、心が震えるような瞬間が確かにある。
そういったものをもたらしてくれる源泉が世界である。
だから世界は、私にとっていつだって素晴らしい。
社会はろくでもないかもしれないが、それを取り巻く世界は常に美しい。
世界を愛し、世界に愛されることは、この私の人生を最大限の力で肯定してくれる。
ただ、我々の生活は「今ここ」で営まれているし、そこ以外に成り立つ条件はない。
日常茶飯に足元をからめとられながら全力でもがく中で、時に素晴らしきこの世界が立ち上がってくる瞬間がある。
その瞬間があれば、私たちはまたこの日常をなんとか歩いていくことができる。
だから私は、「自分-世間-社会-世界」という世界観の中に生きていたいと思う。