どうしたら「正しいおじさん」になれるものか、日々模索している。
とりあえずの作業として、私が反面教師にすべく収集した「おじさんムーブ」を列挙しておく。
・我田引水。他者の話題提供に判で押したように「でも俺の場合…」と切り返す。
・「俺を敬え」という目的のために、手段として他者(特に若者)を頭ごなしに否定する。
・経験の蓄積を自ら高値査定し、他者に強要する。
・「俺は頑張ってる」話を、相手が認めても延々と続ける。
・客観的事実(予算、納期等)で相手を押し切るふりをして、その奥に我欲(ex.「な、俺はすごいだろ? 認めろ!」)を仕込んでいる。
・その人の人格ではなく、記号としての「若い女性」を好む。
・何も共感していないのにユースカルチャーに理解を示すなど、若者に妙におもねる。
・臭い。不潔由来、生活習慣由来の。
これらが代表的なものだが、まずはこれを回避するということが、もっとも手っ取り早い「正しいおじさん道」の第一歩となるだろう。
しかし、だ。
かつては誰しも若者だったし、我々も90年代~2000年代は確かにそう言われていた。
我々にとっての中高年とはすなわち団塊世代だったが、彼らを見て「こんな風にだけはなりたくない」と誰よりも強く思ったのが、我々世代ではなかったか。
だというのに、今や私たちがかつての彼らのようにふるまっているのには慄然とする。
もっと質が悪いのは、我々は団塊世代のように構造的に誰でも富めるわけではなく、年功に比例しないハードモードを生きている者が多いためか、エラソーさに被害者意識が加わっていることだ。
「俺を敬え」に「俺を慰めろ」が加わった臭い生き物を、誰が相手にしたいと思うだろか?
中年とは、そんな風に自分を客観視する能力を喪失してしまう年頃なのか。
かように、いささか暗澹たる気持ちで過ごしていたところ、BSで放送されていた「男はつらいよ」を偶然観て、なんだ、ここにおれのロールモデルはいるじゃないかと思った。
寅次郎は流転の人である。
しかし、いわゆる旅人属性はまとっていない。
それは彼が、世界に対する免責要求を何一つ持っていないからだ。
彼はお節介にも他者の人生にコミットし、その人の人生に「善なるもの」を積み増ししたのち、気持ちよく去っていく。
寅次郎は男女問わず人気がありモテるが、現実的には何ひとつ手に入れない。
それは彼が、フーテンとしての身上と引き換えに自らに課した約束であり、自由を享受する代わりに、この世界に自分のものを何も持たないことに決めているからだ。
寅次郎は経験豊富であり、見てきた景色、触れ合ってきた人々の多さは同年代を軽く凌駕する蓄積の持ち主である。
その蓄積が人々を惹き付けてやまないわけだが、彼はそれをただひたすら与え続けるだけで、そこから己の利得を引き出そうとしない。
それは彼が損得勘定の能力に欠けているからでなく、むしろ逆に、蓄積から足場を形成することで「居着く」自分に、それこそ計算高く警戒しているからだ。
居着くことは、寅次郎にとって死を意味する。
なぜならそれは、彼を彼たらしめるものの破棄であり、居着いた自分は(彼が自嘲的に言う)「やくざ」以下の存在でしかないからだ。
そのことを知っている彼は、決して何も手に入れないままの自分を、呆れながらも愛し続ける。
私たちは普通、寅次郎のように生きることはできない。
足場を築き、それが他者にとっては取るに足りないようなものであってもそこを守り、生活の糧をそこから得る。
しかし本来、足場は私たちにとって生きるための手段であり、目的ではなかったはずだ。
自分を自分たらしめるものは、結局のところ自分の内側にしかないはずなのに、私たちはそれを、外形的な何かに求める。
それが社会的地位などと呼ばれるものとなった時、かつての若者は、簡単に居着いてしまうようになるのだろう。
寅次郎のように、老いながら居着かないあり方を、私は目指していきたい。