自虐道

正しいおじさんへの道としてもっとも手っ取り早い手法がある。

「自虐」だ。

ライフハック系のサイトでも常套句となっているように、自虐は他者からの好感度を得るメソッドとしてかなり即効性が高い。

半面、そのお手軽さゆえに、芸としての完成度が低いと結局は「自分の話ばかりするおっさん」になってしまいがちであり、皮相な自虐の多用は逆効果であるように思う。

 

完成度の低い自虐には、必ず一層めくったところに同情への欲望がある。

それが「こんな俺、かわいそうだろ?」くらいなら(かなり不愉快ではあるが)まだ許容できるものの、「こんな俺、かわいいだろ?」まで踏み込んでしまうと、これはもう不可逆的に痛い。

また、本当に自分がダメージを喰らっている要素は周到に回避している場合なども、逆効果になりがちだ。

つまり、話題の選択から匙加減まで、自虐道はそのお手軽なイメージに反してなかなか奥が深いのである。

自虐芸に求道的な存在として例えば吾妻光良 &The Swinging Boppersが思い浮かぶが、彼らの楽曲くらいにならないと、「面白い自虐」とはなかなか受け取ってもらえない。

吾妻の音楽を聴くたびに、私はその高い芸の完成度に唸りつつ、「生兵法は怪我の元」という警句を想起するのである。

 

ということで、私は現状、戦術として自虐の採用に積極的ではない。

もちろん、その手の言動をまったく取り入れないということではなく、加齢由来のネタには手を染めないということだ。

例えば40代中盤以降の定番ネタとして老眼があるが、近くが見えないだの、(近視用の)メガネをデコにずらすようになっただのは、最初の一回くらいは好意的に受け取られるだろうが、何度も繰り返されると本当にうざいものだ。

あんたの老眼とか知らんわ、というのがこの世界を構成する「他者」だからだ。

 

そして自虐をコミュニケーションに用いるのであれば、本当に自分がダメージを受けている事象について、少しは開陳することも必要だろう。

「自分で言う分にはいいが他人からは言われたくない」事柄は誰にでもあろうが、そのような領域に、自分が致命的な傷を負わない程度に踏み込む、というのはなかなかの技量を要する。

「痛々しいがどこか笑える」という極めて狭いスウィートスポットを正確に撃つためには、それこそ年功が求められるだろう。

 

かように、私の「正しいおじさんへの道」は、いまだNGリストの作成の域にとどまっており、模範的言動の収集には至っていない。

だがそれは、長大なNGリストが完成した先に見えてくるものであろうから、今は「べからず集」に書き加えながら日々を過ごすのである。