人口構成と消費

1976年に生まれたということは、実質的な記憶を伴う昭和時代を過ごし、平成時代に若者として社会に位置し、そして中年として現在を生きていることになる。

この間、この国の歴史はドラスティックに変わった。

もちろん、戦争に匹敵する出来事は起こらず平和を享受してきたのは間違いないが、戦後日本を統べていたルールがいつの間にか変わってしまったのは、我々が砂被りで体験した事実である。

そのルールとは、加齢に伴う喪失と獲得に関するものだ。

我々以前の世代は、加齢とライフステージの変化にロールモデルが存在した。

その枠内では、10代に夢中になったことは20代では軽視され、20代で夢中になったことは30代で無価値に等しくなり……と喪失サイクルが構造的に訪れる一方で、その陰画としての獲得(結婚、出世、マイホームetc.)が立ち現れた。

このシステムの原動力とは「消費」であり、我々が、人生を通じてもっとも歩留まりの良い消費者であるように設計されたものである。

このシステムの構築者は天才的などこかの巨人ではない。

この島国で、内需を回しながら日々の糧を得る私たち一人ひとりが、それぞれの領域で無意識のうちに参与しながらつくり上げたものである。

 

だがこのシステムは、人口構成がピラミッド型(もしくはそのヴァリエーション)である限りにおいて有効であり、いわゆる壺型から逆ピラミッド型に遷移していく過程においては、次第に効力を発揮しなくなる。

高いポテンシャルをもった大量の新規消費者が後に控えていないのだ。

消費者の新規大量発生が見込めないとなると、考えうるのは一つ、繰り返しの収奪である。

例えば我々の世代は人口のボリュームゾーンだが、それに続く世代はしりすぼみに数が減っていく。

そうなると、我々を何かから「卒業」させて次のステージに追いやっても、我々の座っていた椅子は空席だらけになる。

であれば、いつまでも卒業を延期し、一定の場所で繰り返し消費に勤しんでもらおうというのが、資本主義社会における道理となるだろう。

 

あれは2000年前後だったろうか。

それまで差別と蔑視の対象であり、いつか抜け出すべき地獄というコンセンサスの出来ていた「オタク」が、妙に持ち上げられ始めたのだ。

オタクへの「おもねり」を最初に始めたのは、意外にもそれまで彼らをもっとも侮蔑してきたサブカル界隈だった。

CDや書籍の売上が97年あたりをピークに下降線を描き始めると、タワレコの店頭にはアニメやアイドルの関連商品が次第に押し出されるようになってきた。

親世代の蓄財を基盤に無軌道な消費を繰り返すオタクたちは、資本にとってこの上ない上客であることに気付いてしまったら、気取ってばかりで気分次第ですぐにいなくなるサブカル人間など相手にしている暇はない。

その後20年以上にわたってオタクへのおもねりは継続し、今や中高年の生きがいとして「推し活」が奨励されるほどになってしまった。

 

資本主義社会において、世の中の成文化されていないルール変更は、大体が人口構成と消費行動の関係を見れば説明が付く。

我々の世代は特に、この国に現れた最後のボリュームゾーンとして、繰り返し消費の主役に祭り上げられるだろう。

だがしかし悲しいことに、我々は例えば団塊世代の蓄財に比べ、その成果は著しく低い。

消費者としてのポテンシャルは前例にないほど低い大人集団であるにすぎない。

とはいえ頭数だけは揃っているし、個性よりも集団性を優先するような初期設定がなされているから、低いゾーンの消費主体として、死ぬまで収奪され続けることになるだろう。

自分にとって価値のあるものは何かを自分で決めることができない人間はとりわけ、その対象にリストアップされていくのだ。