穏健に徒手空拳

何がしかのかたちで社会参加をしている限り、人は歳を重ねるごとに何かを獲得していく。

それは決して喜ぶべき、歓迎すべきものばかりではなく、必ずしも他者からの評価を得られるものばかりでもないが、その獲得したものをベースに自分の身の振り方を考えるようになる。

若者と中年、老人が違うのはこの「獲得物」の有無であり、そこから生まれる言動の差が、まるで別の生き物のような結果につながっている。

 

誰でも平等に歳は取るものだが、それに比例しないかたちで、「何も得ない」という生き方も、あるにはある。

たとえば社会参加を一切せず引きこもっている場合などは、それに該当するケースがあるだろう。

しかし、登戸事件の犯人がそうだったように、何も獲得する術がないはずの人も、怨念を積み増ししていくケースはあって、それもやはり、年功に応じた獲得物ということになる。

社会参加していれば、なおのこと「何も得ない」まま歳を重ねていくのが困難であることは、言うまでもないだろう。

 

だから問題は、獲得する/しないではなく、獲得したものを足場として利用するかどうかに焦点が移行するわけだが、そうなるとそれは生き方の問題になってくる。

もっといえば、経験を経験値に変換するまでは良いとして、その使用法をどうするかという問題になるだろう。

私が思うに、この経験値の現場活用を、自分の内にとどめておくか、他者に向けて適用するかによって、結果は大きく異なる。

現代社会において経験値を他者に影響のある仕方で適用する場合、往々にしてそれは他者にとって「迷惑」というかたちで表出する。

これは古今東西繰り返されてきた「押しつけ」であり、最近の言葉で言えば「マウント」である。

もちろん、経験値が大いに活用される場面もあることは確かだが、老人も含め、今の大人のほとんどが戦後生まれとなった現在、私たちの積み重ねてきた経験など、先人に比べるほどの価値もない。

生ぬるい時代で形成された我々の経験値が、ボーナスステージの終了した現代日本を生きる若者の重要局面に際し、どれほど役に立つというのだろう。

 

そう考えると、現在の日本社会における最善の振る舞いは、「大人としての年功をあくまで私的活用する」ということになるだろう。

それは誰からも尊敬される機会を作り出すことはないが、少なくとも後進たちに迷惑をかける可能性は低い。

特に我々70年代生まれがこれまでに構築したものなど取るに足りないのだから、私たちは二十歳の頃と同じように、徒手空拳で世の中に対峙すればいいのだ。

その際、かつてのようなパセティックな仕方ではなく、それこそ年功を積んだ者としての、「角の取れた徒手空拳作法」を見せねばならない。

 

穏健な徒手空拳ぶり——私の大人作法に、また一つ指針が加わった。