この世で一番キレイなもの

早川義夫の「この世で一番キレイなもの」を初めて聴いたのは、予備校浪人時代だったと思う。

その頃僕は完全な洋楽少年だったが、『ロッキング・オン』で松村雄策さんが早川義夫の復活に触れた記事を高校時代に読んでおり、それがずっと頭の片隅にひっかかっていた。

松村さんは早川のことを「日本で一番すごい歌手」と書いていたが、その名を聞いたことのないこのおじさんが本当にそうなのか……と半信半疑の気持ちでいたのだ。

 

僕が福山で予備校に通っていた頃、兄は高松の五十流大学に在籍していた。

時間の有り余る浪人生にとって、兄のところを訪ねる小旅行は定期イベントであり、頻繁に高松の街に遊びに行っていた。

高松の商店街に、今もあるかどうか知らないが、なかなか凝った品ぞろえのCD屋があった。

そこはパンクとニューウェーブに力を入れていたので、ビートルズブリットポップが守備範囲だった自分には完全合致というわけではなかったが、世界を広げるにはうってつけのお店だった。

そこで僕は、今までに聴いたことがないタイプであろう2枚のCDを買った。

ジョイ・ディヴィジョンの「クローサー」と、ジャックス「ジャックスの世界」。

どちらもロッキング・オンで知って気になっていた盤だった。

 

ジョイ・ディヴィジョンについては、今もそうだが僕にはしっくりこなかった。

それは音楽の良し悪し以前に、本能的に「これは聴いてはいけない音楽だ」と感じたからだ。

とにかく暗すぎる。

これにハマると自分もヤバいことになるだろうということがすぐにわかり、ほとんどプレーヤーに載せることはなかった。

だが、もう一枚の「ジャックスの世界」にはやられた。

1曲目「マリアンヌ」のイントロから、頭をぶん殴られたような衝撃を受けた。

聴き進めていくと、どの曲もまさに自分が欲している音楽そのものだと思った。

そしてこんなすさまじい作品が、60年代の日本で生まれていたことに心底驚いた。

僕はそれまで邦楽には聴くに値する音楽などないと、何も知らないくせに蔑視していたものだが、その偏狭ぶりを大いに恥じた。

 

そこからジャックスの音楽を中毒のように聴き続けた。

2nd「ジャックスの奇蹟」は、「世界」に比べれば正直わけのわからない作品だったが、それでも「花が咲いて」など、このバンドでなければ作れない曲が収録されていて、これもすごいレコードだと思った。

続いてジャックス解散後の早川のソロ、「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」にも進んでいき、これも最初はあっけにとられながら、次第にその作品世界にのめり込んでいった。

とはいえ、やはり僕にとっての最重要作品は「ジャックスの世界」であった。

「世界」は、衝動に貫かれた作品だけが持つ独特のエネルギーを有する一方で、完成度の高さも兼ね備えている完璧なレコードだと思った。

その完成度とは作り込まれたそれではなく、決定的な瞬間の連続をあますことなく録音した奇跡からもたらされるものだった。

そしてジャックスは、自分にとって音楽は聴くだけのものではなく、やるものなんだという意識を僕に芽生えさせた。

多くの先人は日本語でロックをやることをはっぴいえんどから学び取ったが、僕はジャックスにその蒙を啓かれたのだ。

来年は東京に行ってバンドを始める——その決意が固まったのは、ジャックスに出会ったからだ。

 

そしていよいよ、早川が24年ぶりに歌手として復活しリリースした「この世で一番キレイなもの」を手にとったのは、ジャックス体験を通じ、彼が18歳の僕にとってもっとも影響力のある存在となってからのことだった。

あのカリスマが再臨したのだ、どんなすごい音楽なんだろう……大きすぎる僕の期待は、すぐに肩透かしを喰らった。

一聴して、まずはあの(それが激しくても穏やかでも)鬼気迫るような音像が感じられなかった。

ピアノ弾き語りをベースとしたバラードの連続といった感じで、音も90年代風に小奇麗な感触になっているではないか。

僕は正直がっかりした。

ただそれでも、このレコードには何か気になるところがあった。

けっきょく、隅に追いやることなく折に触れて聴き続けた。

 

人はそれまでの度量衡で判断できない何かに直面した時、苦しみや不快に似た負の感情を抱く。

それを直視するのはしんどいからその対象を捨ててしまうのが常だが、時として「この良さがわからないのはひょっとして自分の感じ方の問題ではないか」と思わせるような対象に出会うこともある。

「この世で一番キレイなもの」は18歳の僕にとって明らかに後者だった。

そしてそれは、自分の枠組みが押し広げられるときの痛みを感じさせるものであった。

僕は繰り返しこのレコードを聴き、次第に、早川のシンプルだが研ぎ澄まされた言葉と、それを発する響きに魅入られていった。

そしてここには、今の自分には理解できない何かが蔵されており、これから僕は長い将来にわたって、このレコードを繰り返し聴くことになるだろうと予感した。

 

あれから30年近い時間が流れたが、私は先日、ある種の必要に迫られるような感覚から、「この世で一番キレイなもの」を再生した。

すると早川はその時私を包んでいた感覚を、ものの見事に、これ以上ない簡潔さと深い余韻を両立させて言い切っていた。

 

「いい人はいいね 素直でいいね」

 

この万感の込められたフレーズを生み出すに至った彼の生き方と感性に、今の私は少なからず共鳴することができる。

これが、私が18歳の時抱いた予感だったのだろう。

自虐道

正しいおじさんへの道としてもっとも手っ取り早い手法がある。

「自虐」だ。

ライフハック系のサイトでも常套句となっているように、自虐は他者からの好感度を得るメソッドとしてかなり即効性が高い。

半面、そのお手軽さゆえに、芸としての完成度が低いと結局は「自分の話ばかりするおっさん」になってしまいがちであり、皮相な自虐の多用は逆効果であるように思う。

 

完成度の低い自虐には、必ず一層めくったところに同情への欲望がある。

それが「こんな俺、かわいそうだろ?」くらいなら(かなり不愉快ではあるが)まだ許容できるものの、「こんな俺、かわいいだろ?」まで踏み込んでしまうと、これはもう不可逆的に痛い。

また、本当に自分がダメージを喰らっている要素は周到に回避している場合なども、逆効果になりがちだ。

つまり、話題の選択から匙加減まで、自虐道はそのお手軽なイメージに反してなかなか奥が深いのである。

自虐芸に求道的な存在として例えば吾妻光良 &The Swinging Boppersが思い浮かぶが、彼らの楽曲くらいにならないと、「面白い自虐」とはなかなか受け取ってもらえない。

吾妻の音楽を聴くたびに、私はその高い芸の完成度に唸りつつ、「生兵法は怪我の元」という警句を想起するのである。

 

ということで、私は現状、戦術として自虐の採用に積極的ではない。

もちろん、その手の言動をまったく取り入れないということではなく、加齢由来のネタには手を染めないということだ。

例えば40代中盤以降の定番ネタとして老眼があるが、近くが見えないだの、(近視用の)メガネをデコにずらすようになっただのは、最初の一回くらいは好意的に受け取られるだろうが、何度も繰り返されると本当にうざいものだ。

あんたの老眼とか知らんわ、というのがこの世界を構成する「他者」だからだ。

 

そして自虐をコミュニケーションに用いるのであれば、本当に自分がダメージを受けている事象について、少しは開陳することも必要だろう。

「自分で言う分にはいいが他人からは言われたくない」事柄は誰にでもあろうが、そのような領域に、自分が致命的な傷を負わない程度に踏み込む、というのはなかなかの技量を要する。

「痛々しいがどこか笑える」という極めて狭いスウィートスポットを正確に撃つためには、それこそ年功が求められるだろう。

 

かように、私の「正しいおじさんへの道」は、いまだNGリストの作成の域にとどまっており、模範的言動の収集には至っていない。

だがそれは、長大なNGリストが完成した先に見えてくるものであろうから、今は「べからず集」に書き加えながら日々を過ごすのである。

音楽の衝動

20代前半と30代後半、バンドをやっていた。

いずれもコピーバンドではなく、オリジナルの曲を作って演奏するというスタイルで、それなりの野心というか、「趣味」と言い切ることに抵抗を感じる程度の気持ちで向き合っていた。

 

人と話していてその話になると必ず聞かれたのが「どんなバンドやってるんですか?」ということなのだが、これは私が最も答えに窮する質問の一つだった。

どんな……。

ジャンルであったり、類似のあるいは目指している具体的なアーティスト名を挙げれば伝わるのだろうし、相手もそこまで真剣に聞きたい情報ではなく座持ちのための質問だろうからテキトーに答えればいいのだろうが、それが出来なかった。

さんざん逡巡した挙句、「えーっと、普通のポップスです」と答えるのが最終的な着地点となった。

 

けっこう真剣に音楽に向き合って気づいたことなのだが、私には「かっこいい」音楽を作る才能がまるでない。

だからたとえば、歌モノであればシティポップとかネオソウルみたいな、ムーブメントのただなかに居場所を作りだすことはできない。

ただ、自分が、ひょっとしたら自分だけが「いいのではないか」と感じられる音楽を作ることはできる。

その音楽は、メロディやフレーズに私の聴いてきた音楽の影響を色濃く確認することはできるが、最終的な手触りは、完全にオリジナルなものであったと思う。

なお、それが高い水準に達していたか、低いレベルでとどまっていたのかは、私にはわからない。

 

そしてもう一つ、バンドをやっていて知ったことに、音楽を生み出すためのエネルギーは、ある種の狂気からしか生まれない、という事実がある。

自分で曲を作って演奏するという行為は能力の問題ではなく、そうさせる衝動が顕在化しており、それに身を委ねる心構えがあるかどうか、だけなのだと思う。

やりたいからやるというよりは、せざるを得ないからやるというのが実感であり、その状態が維持される期間のみ、音楽を作り出すことができるのだ。

 

今の私には、そういった衝動がまったくない。

ただひたすら、好きな音楽を探し求めて聴いているだけで満足なのだ。

ただ、あの衝動がいつ頭をもたげてくるのか、それは自分でもわからない。

もし将来そのようなことになれば、私はやはり素直にギターを手に取り、新しい曲を作り、メンバーを集めるのだと思う。

そして、どこにハマることもなく、かといって未知のものでもない、なんとなく座りの悪い音楽を、「これが最高だ」と思い込んで演奏したり録音したりするのだろう。

街のバー

半年ほど前に引っ越してきた街に、一軒のバーがある。

といっても昼間はカフェ、夜はバーといういわゆるカフェバーなのだが、出している酒はそこら辺のオーセンティックバーが舌を巻くようなものばかりなのだ。

そして価格が素晴らしい。

どのビールもカクテルも500円均一という破格値でノーチャージなので、乾きモノを頼んでも会計は3桁台ということがままある。

しかし酒の品ぞろえに手抜かりは一切なく、私の好きなバーボンについては、プレミアムクラスの銘柄が居並ぶという有り様だ。

 

バーにとって、空間としての雰囲気は時として酒以上に重要だが、その点もここは信頼できる。

マスターの絶妙な客との距離感が生み出す微量の緊張感が上手く非日常の空気を醸成し、常連が大騒ぎするようなこともなければ、過度に静まり返ることもない。

適度なざわめきを背後に一人黙って飲むもよし、二人で静かに会話するもよし、自分では絶対に作れない美味いカクテルを飲みながら、外の景色を眺めるもよし。

ここは何の変哲もない郊外の住宅地だが、この店のカウンター越しに眺める街道の風景は、この街に住んでいてよかったと思わせる温かみを感じさせる。

 

マスターは年齢こそ初老に属するのであろうが、そう言うのが失礼なほど背筋の伸びた、ストイックな印象の方である。

何も話したことがないのですべては憶測なのだが、ここでマスターを始める前にもあらゆる場所で経験値を高めてきたことのうかがえる達人の風情で、いつも折り目正しく、かつ堂に入った振る舞いを見せてくれる。

実家のような安心感でここに入り浸っている若い女性にも、誰かと話したくてしょうがない中年男にも、どんな客にも平等で見事なあしらいを見せつつ、決して踏み込むべき領域の深さを誤ることがない。

彼自身がどのような来歴の人なのか、私には非常に興味深く思えるが、それを知ることがなくとも、私にとってマスターは大人のロールモデルの一人となっている。

 

最近はノンアルコールの日が多く、飲む日であっても店の休日(しっかり休むところもまたいい)と重なってなかなか行けていないのだが、この週末にはぜひまた立ち寄ってみたいと思っている。

自分の住んでいる街に、こんな店があってよかった。

世界は知らないことだらけ

SpotifyPANTA & HALの「マラッカ」を落として聴いている。

驚いた。

同時代の「洋楽」に比肩するほどの演奏クオリティ、それをあくまで「従」の域にとどめる確固たるソングライティングが見事に録音されているではないか。

PANTAに関しては、頭脳警察のアルバムを聴いていたくらいでその後の仕事はフォローしていなかったのだが、あくまで自分のスタイルに求道的なタイプの表現者かと思っていた。

ところが「マラッカ」の音は、当時スティーリー・ダンを筆頭にロック界を席巻していたフュージョンAORサウンドを指向した、世界基準のものだ。

とりわけ、今剛のギターが素晴らしい。

のびやかで切れのあるトーンは、とても二十歳そこそこの若者が弾いているとは思えない風格がある。

PANTAの唯一無二のボーカルも不思議と多国籍サウンドにマッチしており、かなりの滋味がある。

もしかしたら「マラッカ」は、今日日のシティポップdigの文脈の中でも取り上げられているのかもしれないが、それにしてはヴォーカルのクセが強いかもしれない。

 

もともとPANTAに関しては、巷間言われるポリティカルなイメージはあまりなく、パンキッシュなイメージもない。

頭脳警察の2ndを聴く限りの印象だが、ハードフォークに裏拍や横ノリを加味したサウンドを目指しているように感じていたし、歌詞の内容も、どちらかといえば内省をモチーフにしたもののほうが印象に残っていた。

そう考えると「マラッカ」は突然変異ではなく正常進化の作品であり、巧者のメンバーを手にしたPANTAが、自分の出したい音を出したということなのだろう。

そうか、やっぱり求道的な人なのだ。

 

とにかく私にとっては未聴の名盤の発見であり、静かな興奮を感じている。

当たり前のことだが、聴いたことのある音楽よりも聴いたことのない音楽のほうがこの世界には圧倒的に多く存在するということを、改めて思い知ったのであった。

正しいおじさん

どうしたら「正しいおじさん」になれるものか、日々模索している。

とりあえずの作業として、私が反面教師にすべく収集した「おじさんムーブ」を列挙しておく。

 

・我田引水。他者の話題提供に判で押したように「でも俺の場合…」と切り返す。

・「俺を敬え」という目的のために、手段として他者(特に若者)を頭ごなしに否定する。

・経験の蓄積を自ら高値査定し、他者に強要する。

・「俺は頑張ってる」話を、相手が認めても延々と続ける。

・客観的事実(予算、納期等)で相手を押し切るふりをして、その奥に我欲(ex.「な、俺はすごいだろ? 認めろ!」)を仕込んでいる。

・その人の人格ではなく、記号としての「若い女性」を好む。

・何も共感していないのにユースカルチャーに理解を示すなど、若者に妙におもねる。

・臭い。不潔由来、生活習慣由来の。

 

これらが代表的なものだが、まずはこれを回避するということが、もっとも手っ取り早い「正しいおじさん道」の第一歩となるだろう。

しかし、だ。

かつては誰しも若者だったし、我々も90年代~2000年代は確かにそう言われていた。

我々にとっての中高年とはすなわち団塊世代だったが、彼らを見て「こんな風にだけはなりたくない」と誰よりも強く思ったのが、我々世代ではなかったか。

だというのに、今や私たちがかつての彼らのようにふるまっているのには慄然とする。

もっと質が悪いのは、我々は団塊世代のように構造的に誰でも富めるわけではなく、年功に比例しないハードモードを生きている者が多いためか、エラソーさに被害者意識が加わっていることだ。

「俺を敬え」に「俺を慰めろ」が加わった臭い生き物を、誰が相手にしたいと思うだろか?

中年とは、そんな風に自分を客観視する能力を喪失してしまう年頃なのか。

 

かように、いささか暗澹たる気持ちで過ごしていたところ、BSで放送されていた「男はつらいよ」を偶然観て、なんだ、ここにおれのロールモデルはいるじゃないかと思った。

 

寅次郎は流転の人である。

しかし、いわゆる旅人属性はまとっていない。

それは彼が、世界に対する免責要求を何一つ持っていないからだ。

彼はお節介にも他者の人生にコミットし、その人の人生に「善なるもの」を積み増ししたのち、気持ちよく去っていく。

寅次郎は男女問わず人気がありモテるが、現実的には何ひとつ手に入れない。

それは彼が、フーテンとしての身上と引き換えに自らに課した約束であり、自由を享受する代わりに、この世界に自分のものを何も持たないことに決めているからだ。

 

寅次郎は経験豊富であり、見てきた景色、触れ合ってきた人々の多さは同年代を軽く凌駕する蓄積の持ち主である。

その蓄積が人々を惹き付けてやまないわけだが、彼はそれをただひたすら与え続けるだけで、そこから己の利得を引き出そうとしない。

それは彼が損得勘定の能力に欠けているからでなく、むしろ逆に、蓄積から足場を形成することで「居着く」自分に、それこそ計算高く警戒しているからだ。

居着くことは、寅次郎にとって死を意味する。

なぜならそれは、彼を彼たらしめるものの破棄であり、居着いた自分は(彼が自嘲的に言う)「やくざ」以下の存在でしかないからだ。

そのことを知っている彼は、決して何も手に入れないままの自分を、呆れながらも愛し続ける。

 

私たちは普通、寅次郎のように生きることはできない。

足場を築き、それが他者にとっては取るに足りないようなものであってもそこを守り、生活の糧をそこから得る。

しかし本来、足場は私たちにとって生きるための手段であり、目的ではなかったはずだ。

自分を自分たらしめるものは、結局のところ自分の内側にしかないはずなのに、私たちはそれを、外形的な何かに求める。

それが社会的地位などと呼ばれるものとなった時、かつての若者は、簡単に居着いてしまうようになるのだろう。

 

寅次郎のように、老いながら居着かないあり方を、私は目指していきたい。

サニーデイ・サービスふたたび

ずいぶん久しぶりに、サニーデイ・サービスの作品群を聴いている。

1stの「若者たち」から99年の「MUGEN」あたりまでだが、やはりこの時期のサニーデイは完全にゾーンに入っていたと改めて感じている。

 

まず何といっても、歌と言葉の圧倒的なクオリティ。

時の風雪に耐えた曽我部の言葉は、今もそれを聴く者に何かを喚起させる力に満ちている。

90年代のサニーデイに一貫していたのは、東京という街へのあこがれと幻想だと思う。

地方出身者が東京に抱くイメージのままの東京が、90年代までは確かにあった。

若者だらけの雑踏、時の止まったような喫茶店、都会とは思えない豊かな緑、そして日夜繰り返される、街での出会い。

そんな東京への思いを、生活者でありながら、完全に腰を据えない絶妙な距離感で切り取って見せた言葉の数々は、失われてしまった東京の面影を見事に再現している。

それはあたかも、松本隆が失われた東京=風街を描きだした70年代の仕事を継承しているかのようだ。

 

そんな言葉たちが載せられるメロディは、一人のソングライターの絶頂期からしか生まれない、説明不能の美しさに満ちている。

曽我部が歌い出した瞬間、空間のすべてが静かな高揚で満たされるような、圧倒的な支配力。

若くしてこれだけの才能を発揮させることも稀有だが、それがコンスタントに作品化されたことは、時代状況も含めて幸運の連続としか言いようがない。

 

そして新たな発見として、バンドアンサンブルの素晴らしさに感じ入っている。

端的に言って巧い。

曽我部のギターは完全に「ヴォーカリストのギター」の域を超えているし、田中のベースはメロディと曲の雰囲気を完全に咀嚼したラインを紡いでいる。

そしてサニーデイの音を決定づける丸山のドラムは、決して流麗でもパワフルでもないが、ドタバタ感をひたすら洗練させたような独自のビートを生み出している。

これが歌と折り重なるとき、唯一無二の音響が生まれるのだ。

特に「MUGEN」におけるバンドアンサンブルは、不思議なコンプレッションに覆われたエンジニアリングも相まって、完成の域に達しているのではないだろうか。

 

20年以上の風雪に耐えたサニーデイの作品は、当時のムーヴメントとしての熱量が消えた今でも、否、今だからこそ、新鮮で発見に満ちた魔法のような音楽だと感じる。