グレート・ジャーニー

高校同窓会に行ってきた。

この旅は当初、私にとって感傷旅行、センチメンタル・ジャーニーになるはずであった。

その根拠は9/27の記事にまとめた心理状態なのだが、結果としてその見込みは大きく外れることとなった。

 

地元の駅に降り立つと、私は今までにない緊張と高揚に包まれた。

考えてみれば、これまでの帰省では親族以外に会うこともなく、ただの空間移動に過ぎなかったものが、今回は違う。

私は30年近く前に封印した扉を開け、その先にいる、忘却と永遠をないまぜにした人たちと再会することになるのだ。

「真実の瞬間」にはこれまで何度か立ち会ったことがあるが、今回もその時特有の、意識と身体が乖離したような希薄な接地感の足取りで、とりあえず今夜の宿を目指した。

 

ホテルで身支度を整え、「さて」と声に出してから私は会場へ向かった。

今回の目的は2つ。

3年の時、誰とも話さず殻に閉じこもっていた僕にやさしくしてくれたNさんにそのお礼を言うこと。

そして、同じく3年の時に亡くなったSくんの話を誰かとすること。

この明確な2つのミッションが、慄く私の足腰を着実に動かすことになった。

 

第一部の総会では、私は誰と話すでもなく端に陣取り様子をうかがった。

確実に記憶と照合できる顔が何人か、そしてNさんと思しき人もいる。

私はこの状況からミッションを達成するために必要な蛮勇を手に入れるべく、懇親会ではすきっ腹にビールを充填しようと決めた。

 

手持無沙汰なまま懇親会場に移動し、自由着席というルールに若干引きつりながら、私は間近の円卓に座った。

そこには5名ほどの男性陣がすでにおり、自己紹介しつつ名前を訊いていったが、人間の記憶というのは面白いもので、同じクラスになったことのない面子ばかりでも顔だけはちゃんと覚えている。

皆さんどの方もやさしく気遣いの人ばかりで、私は次第に緊張がほぐれていくのを感じた。

 

さて、ビールを流し込みながら前方をうかがうと、旧教員たちの集まった卓がある。

担任の先生はいなかったが進路指導担当のF先生がいたので、「ちょっと挨拶してくるわ」と言って席を立った。

作戦としては、F先生に絡むことで「あいつ結構自分から行くタイプなんだな」という会場のコンセンサスを醸成しつつ(なぜなら私は明らかに謎めいた存在であり、「あの人誰だっけ?」の視線を開始早々から相当に感受していたのだ)、同時にF先生との談話で自らのエンジンに着火し、返す刀でNさんの居る女子卓に突撃する、という機動戦だ。

F先生のたもと膝を折り自己紹介したが、「わしゃあ名前とか全然覚えとらんのよ」とのことで、私は数少ないF先生との思い出を語ってみせた。

F先生は終始上機嫌で、私も饒舌の域に達した。

この経由作戦は、私の心理面に弾みをつける上でも大いに有効だったわけだ。

 

充実の沈黙が到来したタイミングでF先生の席を辞去し踵を返すと、私はすぐに女子卓にロックオンした。

先方も受け入れ態勢は整っていたようで、私はまず目に入った確信度80%のIさんに「Iさんですよね?」と口火を切り、Tさん(確信度90%)も輪に加わって、私の存在が彼女らに認知された。

「ほらやっぱり、恭ちゃんじゃ!」

ああ、何十年ぶりだろう、郷里の人による「恭ちゃん」。

Tさん、本当にありがとう!

そしていよいよ、私は本丸に駆け上がった。

「Nさん、ですよね?」

そこから先、私は気絶に等しい状態に陥ったので、具体的な記憶はほとんどない。

ただ現在、私の携帯にはNさんとの2ショット写真が収まっている。

 

今回の最大の収穫の一つは、Oくんと仲良くなれたことだろう。

Oくんは3年の時同じクラスだったが、一度も話したことはなかった。

Oくんはサッカー部でムードメーカー的存在であり、超絶こじれだった私とは対極に位置していたためであるが、私はどこかで、Oくんにはパブリックイメージと異なる、内向的なところがあるように感じていた。

彼から話しかけてもらって始まった会話だったが、私はすぐに、彼の懐に抱かれるのを感じた。

それはひとえに彼の包容力のなせる業なのだが、当時感じたほのかなシンパシーみたいなものが、やはり間違っていなかったのだろう。

 

二次会がお開きとなり、三次会の手はずも進んでいたが、私はなんとなくここが潮時のように感じた。

もう一つのミッションに取り掛かる時が来た。

散会と「まだまだ」の溜まりのなかでOくんを捕まえ、再会を誓いつつ、私は「Sくんのことだけど……」と切り出した。

「ああ、その後Sの実家の店にも行ったし、墓参りにも行ったよ」

「今日Oくんと高校時代に仲良くなれてたらよかった、って感じたけど、Sくんにもずっと同じことを感じててね」

「そうなんじゃ。まぁ、それは仕方のないことよ」

そんな会話だったように記憶しているが、すべての思いが彼と共有できたと感じた。

 

帰りの新幹線で私は、中島らもの『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』の続きを読んでいた。

この本の存在は昔から知っていたが読んだことはなく、しかるべきタイミングが来たら読もうと思っていた一冊で、そのタイミングが今回だと思って持参したのだ。

短編エッセイから成るこの本で、18歳で自死した友人のことを36歳の中島らもが思い出す文章があった。

18歳で夭折した彼はいつまでも18歳のままで、薄汚れた世の中を生きて薄汚れている自分からすれば、ずるい、なんだか嘲笑されているような気にもなるという。

そこに続く文章に、私は息をのんだ。

 

ただ、こうして生ききてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、「生きていてよかった」と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う。生きていて、バカをやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも「まんざらでもない」瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていればよかったのに、と思う。

 

感傷旅行に終始する予想はすでに大きく覆されていたが、この文章に出会うことで、これは完璧な、偉大な旅になったと思った。

私にとってあの夜は、確実に「生きていてよかった」と思えるものだったのだ。